7、8年ほど前、パニック障害に苦しんだ時期がありました。
それは自分の心が自分で全く制御できない、という体験でもありました。
そして『薬』というものに対する考えがすっかり変わった出来事でもありました。
なんか振り返ってみたくなったのでダラダラと回想。
大学1年の夏休み、なんだか息苦しさを感じるようになった。
ひどいという程では無かったけど、息苦しさを感じる日々が続いた。
自分は小児喘息があったから、それが原因だと思い、喘息の治療をしたけど少しも良くならなかった。
近所の内科では、精神的なものが原因と言われ、デパスをもらった。
精神的な効果のある薬、例えば各種違法薬物なども、そういったもの全般が当時は大嫌いだったし、精神的なものが原因だとは自分では思わなかった。
だから少し飲んで、「効かない」とすぐ飲まなくなった。
息苦しさを我慢しつつ学校へ通っていたある日、電車の中で急に苦しくなり、妙な違和感に襲われた。
呼吸が急激に苦しくなって体が痺れてきた。
痺れがどんどん広がり、ワケがわからなくて
「息が苦しい」「体がおかしい」「ヤバイ!なにか凄くヤバイ!」
と凄い恐怖感と何か逃げ出したいような気分になった。
あわてて次の駅で降り、すがるように駅員さんに、気分が物凄く悪いと伝え、救急車を呼んでもらった。
病院に着いた時には、その安心感もあってか、いくらか落ち着いていた。
医者は、自分が普段から息苦しさを感じていて喘息の治療をしている事を話すと
「息苦しさで呼吸が早くなり過呼吸を起こした」
と診断し、結局点滴打っただけで帰った。
病院の近くの駅から帰りの電車に乗ると、何だかわからない恐怖感を感じた。
降りるまで続いた。
そして電車に乗るのが恐くなった。
息苦しさを紛らわす為にのど飴をずっと舐めながら、学校まで一時間電車に乗った。
電車の中では息苦しさばかり気になって、乗っているのがとても苦しかった。
あの時みたいになるんじゃないか、とあの猛烈な恐怖感に対する恐怖も感じた。
「あれは初めて過呼吸なんて起こしたから、ワケがわからなくてビビっただけだ」
と言い聞かせてしばらく通った。
狭い教室が苦しくなった。電車に乗る苦痛も増すばかりだった。
やがて学校へ行かなくなった。
自分が精神的な病気だとは認めたくなくて、休んで喘息の治療を続けた。
少しも良くならなかった。
だんだん病院の待合室にいることさえ苦しくなっていった。
その病院さえも行かなくなった。
母にすすめられ、メンタルクリニックへ行く事になった。
家から原付で30分ぐらいの駅前のクリニックだった。
待合室で苦しくなった。
耐えられずに帰ってしまった。
クリニックから原付の置いてある場所までが遠く感じた。
「逃げた」という自責のせいかとても息苦しくなり、恐かった。
家から遠ければ遠いほど恐かった。
「何でもっと近くに無いんだ、近くなら行けるのに」
と理不尽に怒り、そして絶望的な気分になった。
それから家に籠もるようになった。
かなりのアレルギー体質でもあったので、息苦しさの原因をアレルギーのせいかもと考え、部屋のアレルギー対策をしたりした。
あの恐怖は、過呼吸のせいで起きた一時的なものだと懸命に言い聞かせ、少しずつリハビリしていけばすぐ良くなる、と必死に思い込んだ。
しかし外出距離はどんどん縮まり、ついには近所を散歩することさえ恐ろしく感じるようになっていった。
少し家から離れただけで恐くなった。
そして家から一歩も出なくなった。
「息苦しささえ治ればまた外へ出られるのに」
と考えて、良くなる日をあても無く待ちながら過ごした。
窓の外を普通に歩いている人を羨ましく思ったりした。
見かねた母は、精神科に行き、症状を話した。
医者はもちろん治療をすすめ、薬は本人が来なければ出せないと言った。
しばらくして行く決心をし、内科でもらって残っていたデパスを何錠も飲み、母の車に乗った。
『精神安定剤』という言葉に必死にすがりながら、車の中でも何錠も飲んでいた。
病院へは、母がいったん先に受付をして、待たなくてもいいようにしてくれていた。
落ち着かず歩き回り、数分して診察室に呼ばれた。
まだ心の病についても、薬についても何も知らなかった俺は、とりあえず、と医者が処方してくれたセパゾンを喜び、これを飲んでいればまた外に出れるんだと嬉しく思った。
薬に頼っていても、また学校へ通えるようになるならそれでいい、薬が自分を助けてくれるんだ、と薬というものを物凄くありがたく感じた。
セパゾンは、デパスより効果が弱く、効き目が少し長い、というだけの単なる安定剤だったのだが。
結局飲んでも変わらず、また病院へ行った。
前回とは違う医者は
「それはパニック・ディスオーダーという病気。でも大丈夫、凄くいい薬があるんだよ」
と、パキシルという薬について話し始めた。
医者は陽気な老人で
「これは凄くいい薬でね、他の薬とは種類が全然違うの。パニック・ディスオーダーに凄く良く効くんだよ」
と大声で何故か誇らしげにそう説明した。
「コレ飲んでれば絶対良くなるから」
と陽気な老人に言われ、その日からパキシルを一日一錠、三食後にセパゾンを飲み始めた。
息苦しさはある程度良くなっていった。
薬の効果に期待しながら、また少しずつ外出するようにした、リハビリ気分だった。
春が来て、復学することになり、その手続きをしに学校へ行くことになった。
「ここが勝負だ。ずっとパキシルとセパゾンを飲んできたんだから、前よりずっと良くなってる筈。息苦しさもだいぶ良くなった。だから行ける。一度行ければきっと楽になる。俺は行ける!」
と必死に気合いを入れ、緊張しながら電車に乗った。
不安を紛らわす為に、電車の中で姉や弟にメールを送った。
彼らは送るたびすぐに返事をくれ、おかげでメールで気を紛らわす事が出来た。
「こんな優しい家族が俺にはついてるんだ」
と心強さを感じ、嬉しく思った。
そのおかげか、薬のおかげか、その日の自分の決意のたまものか、かなり楽な気分で乗っていられた。
着いて駅を降り
「自分は今家からとても遠い場所にいる」
という考えが頭をよぎったが、恐怖は感じなかった。
学校へ着き教務課で手続きを済ませて外へ出た時
「自分はもう大丈夫なんだ」
と物凄く嬉しくなった。
大きな仕事をやり終えた気分だった。
駅へ歩きながら嬉しくて自宅に電話して
「全然大丈夫だったよ」
と母に報告した。
駅前に、自分が休学する前には無かった古本屋を見付け、調子に乗って入ったりした。
何となく漫画を見回しつつ
「ほら、俺はもう大丈夫だ。良くなったんだ」
などと嬉しく思った。
家に帰り
「まだ完全に良くはなってないだろうから、しばらくは緊張するだろうけど、いずれ慣れるよ。自信が出来たし」
なんて上機嫌で話した。
息苦しさはもうほとんど無くなっていた。
自分にとってはとても勇気のいる事を成し遂げた自分に、一つ許した。
「少しでも調子が悪くなったら、引き返しても良い。まだ完治はしていないのだから。少しずつでいい」
と。
講義を受けるとなると教室に閉じ込められる。
それもきっと出来ると信じた。
ただ1、2年は必修に語学があり、それは少人数のとても狭い教室で行われる。
さすがにそれはキツイと思った。
1年の途中で行かなくなった為、2年になっていた自分は2年分をとらなければならなかった。
しかも語学は埼玉の校舎でしか受けれず、3年になったら東京の校舎に通う事になっている。
結局語学は一旦あきらめる事にした。
広い教室で、ほとんど取れてない単位を多く取ることにした。
語学は翌年に再履修として受けることにした。
狭い教室に一時間半も閉じ込められると考えると、やはりまだ不安だった。
3年になったら、東京と埼玉の校舎両方に通う、という面倒な方を選んだ。
実際に3年になった時、東京埼玉両方通って、何とか2年分の語学の単位を取った。
余談だが、自分が卒業する翌年に大きな変更があった。
自分の頃は、1、2年が埼玉、3、4年が東京の校舎というシステムだったが、埼玉の校舎は新たに設立された学部用の校舎となり、通常の文系学部は4年間東京の校舎、となったそうな。
ちょっと悔しい。
復学して、緊張したのは最初だけで、すぐに慣れていった。
「パキシルとセパゾンをきちんと飲んでいる限り、もうあんな事は無い」
と信じていた。
逆に言えば、薬をやめるなんて考えられない事だった。
「これからもずっと飲み続けなきゃならないんだろうか」
などと考えたりもしたが、毎日の習慣になったせいか、薬を飲んでいる事はあまり気にならなくなっていた。
やがて原宿や代官山に買い物に出かけられるようにもなっていった。
何度か少し不安を感じ引き返した事もあったが、自分を責めないようにし、学校や電車よりは遥かに気楽な地元の駅周辺をうろついて帰ったりした。
自分がパニック障害という病気だと知り、ようやく分かったあの時のような『パニック』の発作も、薬を飲んでいるから大丈夫、と気にならなくなっていった。
ずっと薬を飲み続けている事はやがてほとんど気にしなくなった。
4年になり就職活動で東京の色んな所に説明会を受けに行ったりしたが、ほとんどパニックを意識する事は無くなっていた。
パニック障害についてはこんな感じです。
しかし息苦しさは自律神経失調症だったんですかねぇ…。
まぁあの頃苦しんだものについては、一応良くなったのだしいいか。
しかしパニックの良くなっていた学生時代後半、また別な問題が起こり始めていたのでした。
続く…かも知れない。
最近のコメント